セバスキー P-35(MPM 1:72)製作記
2007.8.28初出
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セバスキー家3姉妹物語 |
と、いきなりチェックが入ったが、キットの出来は悪くない。それどころか大きな美点があり、それはキャノピパーツの出来が素晴らしいこと。簡易インジェクションによくある塩ビのバキュームではなく、プラ製で、外形の正確さ、薄さ、透明度、歪みのなさ、胴体との合わせなど、簡イとは思えない出来である。胴体も、機首を除けばイメージ良好。モールドは繊細な凹スジ彫りで、これも◎である。 小物については、プラパーツは形状、モールドとも怪しいが、簡イならアタリマエ。特徴的な脚カバーはレジン。その他に計器板などのエッチングが付属。デカールは上質で、米陸軍とスウェーデン軍(迷彩と無塗装銀だったかなあ?)が選べるが、残念なことに紛失。 キットはP-35Aをモデル化したもので、P-35とは機首機銃カバー、キャブレター・インテイク、オイルクーラー・インテイク、主翼前縁付け根の処理、主翼機銃の有無などが異なる。総じて、好印象のキットである。店頭で見かけないのが残念。(あとで気付いたけど、胴体長さも違うのね。) 以下、重箱の隅をいくつか。機首については前述したが、翼型は特徴的なセバスキーS-3型が表現されていない。これはサンダーと並べて展示するなら手を入れたいところだ。荒いヤスリでゴリゴリ削ると印象が良くなる。本機は内翼と外翼で上反角が変わり、ミニ・インアクションの三面図では、内翼上面で上反角がゼロなのだが、キットは外翼の上反角を図面に合わせると内翼上面にもわずかな上反角がつく。垂直尾翼が厚いのも印象悪し。水平尾翼はちょっとぽってり気味。 ついでにいうと、P-35Aの1/48インジェクションキットはアカデミーにあるが、確かキャノピのフレームに問題があったような・・・。 |
数年前からこの状態。今回はここからスタート。キットは機首を絞り過ぎかな。 |
キャノピパーツの出来は素晴らしい。 |
まあ、航空技術史的にも、戦史的にもそんなところで、Wikipediaなどを読むと散々だ。以下引用・要約しよう。 『P-35はUSAAC(米陸軍航空隊)にとって、最初の引き込み脚、密閉式風防を持つ全金属、単座戦闘機であった。1936年6月16日のUSAACのコンペで、カーチスモデル75ホーク【P-36のことね】に勝ち77機の契約を得た(1機はXP-41にされた)。 76機は1937〜8年にミシガン州のUSAAC 1PG(第1追撃航空群)に配備された。 P-35に改良を加えた輸出型であるEP-1【資料によりEP-106、EP-1-106というものもあり。Eは輸出を表す】の最初の60機は1940年夏までにスウェーデンに送られ、古いグロスター・グラディエーターの後継となった。残る60機は輸出禁止となり、P-35Aと改称された45機がフィリピンの17PS(追撃飛行隊)および20PSに送られたが、日本機に対して絶望的に劣っていたため、大戦緒戦に撃墜または地上破壊され、1941年12月12日【開戦から5日!】の残存機はわずか8機であった。』 あ〜あ、ホント散々だョ・・・。しかし、サンダーボルトの「原型」が、そんな駄作機であるはずがないっ。「もし」ちゃんと使えば、『絶望的に劣っていた』程ではなく、そこそこの働きをしたのでは?というのが私の仮説。その根拠は、@F4Fと同じP&W R-1830エンジン(ワイルドキャットは、零戦にとっても手強い敵だった)、AP-47に高性能をもたらしたセバスキーS-3翼型、BP-35Aになると翼内機銃(12.7mm×2)も搭載され、武装もそこそこ。 翼面積をF4Fと比較すればP-35の方が小さく、どちらかというと重戦的。不細工な脚の抵抗(これが諸悪の根源か?)はセバスキーの高速翼型が相殺し、けっこうイケたんじゃないかナー。零戦に旋回戦を挑めば散々でも、一撃離脱戦法に徹すれば善戦したカモ。ただし、燃料タンクはセルフシーリングでなく、実戦機としては重大な弱点。やっぱりトホホか。
主翼は後退角が付き過ぎ、プラバンを挟む。接着はイモ付けだが、十分な面積があり問題ない。前縁をサンダーボルトのように尖らせる。水平尾翼もイモ付けだが、これは真鍮線を1本通しておく。そしてこのまま、デビスモンサンのモスボール状態となり、数年が経過・・・
ついでに垂直尾翼もカット、左右パーツの空隙をつぶすように再接着(先端が薄くなりすぎるのを防ぐため、0.3mmプラバンを挟む)。主翼はだいぶ削ったつもりだったが、まだ不十分で、こんどは後半部分を中心に丸みをそぐように削る。P-35にするため、主翼前縁付け根のフィレットを削る。 |
カウリングの先端を広げ、垂直尾翼は厚みを半分程度に削ぐ。胴体側の切断面で、元の厚みが分かるだろうか。 |
赤丸付近を中心に削る。桁方向(青線)には直線になるように(現実には「近づく」ように)削る。垂直尾翼を接着、スジボリを加える。 |
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一定幅に切ったハイテク・マスキングテープを貼っていく。狙ったリブ配置にするためには、何回かの試行錯誤が必要。 |
マスキングテープの隙間をサフで埋め、翌日テープ上の余分なサフをペーパーで削り(つまりテープの厚さのサフが残る)、テープをはがして、表面均して、できあがり。 |
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エッチングの計器板はそこそこの出来。右足下にもサブの計器板がある。ラダーペダルもキット付属のエッチング。 |
シートはレジンパーツに色を塗っただけ。 |
ところが、接着剤をたっぷり流し込んだら、計器板上部のアンチグレアとクリアパーツの狭い間隙に流れ込み、表から見える部分まで接着剤に侵される。これ、時々やってしまう失敗なんだよね。あ〜進歩が無い奴だョ、全く。外して、数日乾かし、磨いて、やりなおし。 |
クリアパーツの接着は流し込み系接着剤を使用。隙間は溶きパテ。まったり作るときは、これがよい。 |
数日置いて、十分にヒケたところで削る。風防側面は、とくに注意して面を出す。 |
前部風防の両サイドは、実機では完全な平面ガラスだが、キットは残念ながらわずかに曲面となっている。パーツが薄いので、無理に削るわけにはいかず、適当なところで妥協。また、その窓の胴体との境界ラインも修正。キットのモールドを削り落として、少し下方に彫りなおす。 |
スジボリはハイテク・テープをガイドにエッチングノコ。 |
ペーパー〜コンパウンドで透明度復活。細い窓枠は、マスキング時に作業する予定。 |
P-35の性能を検証するため、インターネットから各機の性能緒元を拾って一覧にまとめてみる。どのみち、こんな一覧表だけで飛行機の性能を語れないので、参考程度に。誤り等ご教示いただければ幸甚。
注:F4Fの自重はF4F-4のもの、P-43はターボスーパーチャージャー付き。 さて各機、みな基本的に同じエンジンである。P-35Aは翼が小さく(=抵抗小)重量も軽いわりには最高速度が低いのは、脚の抵抗がバカにならないからではないか。F4Fは、重く、翼が大きいわりに、最高速度が高いのは、エンジン出力150hp増が効いているのではないか。それならば、P-35Aに1,200hpのエンジンを積み、防弾を施せば(さらに言えば脚を完全引き込みにすれば)、かなり使える戦闘機になったのではないか・・・。と書いた後で気づく。1,200hpエンジンと完全引き込み脚って、XP-41として実在してるのね。1939年5月に初飛行で、最高速度520km/hだと。(←それでもF4F-3に負けてるのは何故?) それはそうと、この表を見ると、なぜP-35がコンペでP-36に勝ったのか、まるでわからない。速度、上昇率とも負けてるのにね。まあ、表の数字自体、信頼できるものでないから、精緻な議論には耐えられないわけで・・・。 P-43の最高速度がずば抜けて高いのは、ターボ過給機により高高度でも出力を維持したため(空気が薄いので抵抗が小さく速度が出る)。このデータを見ると、日本軍相手の偵察機としては十分過ぎる程。アメリカ陸軍航空隊が、2000hpのダブルワスプにターボを組み合わせた「最新鋭戦闘機」(すなわちP-47)の出現に大きな期待を寄せたのは、容易に理解できる。
次回更新では、P-35Aの戦闘記録など紹介し、ほんとにダメだったのか、さらに実像に迫ってみたい。お楽しみに。
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キット、すなわちP-35Aの胴体はこの長さ。 |
ええい、とヤケクソで、後部胴体を真っ二つ。 |
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胴体を短縮。これがP-35の胴体。スジボリがよれよれだけど、諦める。 |
見よ。このキャノピのヒビを(泣)。 |
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黄色いマスキングテープを先に貼り、その上からセロテープを貼る。そして、マスキングテープをガイドにデザインナイフで切ればできあがり。 |
そしてサフェーサを吹く。まだ、エアインテイクなどの細部が残っているが、こんなのは後回しでいいのダ。 |
『・・・1PG(追撃航空群、後にFG:戦闘航空軍と改称)はAAC(陸軍航空隊)で唯一のP-35部隊であり、その保有機一覧には生産中のP-35が含まれていた。1PGがロッキードP-38によって近代化されたとき、そのP-35は他の5つのPGに転籍された。P-38、P-39およびP-40のような、より近代的な航空機は、依然として量的に充足してなかった。これら新しい部隊は、P-35や他の旧式なタイプを「戦力」のベースとして使用した。その当時望まれたのは、より多くの戦闘機であった。 アメリカ陸軍省によって実行された策の1つは、すでに生産ラインにあって他国に購入される戦闘機を使うことで、一例は、EP-1-106【注:原文のまま。資料により異なる表記あり。】のスウェーデンとリパブリックとの契約、その残り60機であった。EP-1-106は差し押さえられ、このうち45機は当座しのぎの防衛力として、すぐさまフィリピン諸島に送られた。これら機体がフィリピンに到着したときは、まるでスウェーデンに送られたかのようで、スウェーデンの国籍マークもそのままであった。 陸軍航空隊は、これら60機をP-35Aと称した。それらは、よりパワフルな1,050hpのプラット&ホィットニーR-1830-45ワスプエンジンを装備したため、P-35より優速であった。 .50口径の翼機銃と弾薬が追加されても、P-35Aの最高速度は310mph【499km/h】であった。しかしスウェーデン語の計器とコクピットプラカードは歓迎されず、P-35Aの飛行と整備を困難にした。 欠点はあったが、P-35Aは、P-40B、P-40E、フィリピン空軍のP-26とともに、1941年12月の暗黒の日々に、日本軍の攻撃から島々を守ることとなった。フィリピンに到着した45機のP-35Aは、当初はクラーク基地の24PGの全ての航空隊に配備された。しかし、P-40BやP-40Eが運用可能になるとP-35Aは17PS(追撃航空隊)と34PSに回された。セルフリッジ基地の1PGにおける当初からのP-35部隊の1つである17PSは、1940年12月フィリピンに送られた。彼らは4CG(混成航空群)に配属されたが、使用機がなかった! 彼らは、新型が届くまで、使い古したP-26とP-35を使用した。 1941年中頃に17PSはカーチスP-40Eを受領したが、P-35Aはスクラップにされなかった。数機が17PSに残ったが、多くはクラーク基地の南にあるデルカーメン基地にある新しい34PSに配備された。それらは、日本機の攻撃第1波があった1941年12月8日には戦力であった。より高速で重武装のP-35Aであったが、はるかに優速の日本軍戦闘機に、簡単に餌食となった。12機のP-35Aがプロペラを回す前にデルカーメンで破壊された。これらの初期の戦闘の間、2人のパイロット、ベン B. ブラウン中尉とスチュワート W. ロブ中尉がゼロを撃墜した。ロブの機体はひどく損傷を受けたが、彼はデルカーメンに胴体着陸した。 12月10日には16機のP-35Aが、日本軍を攻撃するため離陸した。しかし8機がエンジントラブルで作戦中止し、そのうち1機はエンジン停止でパイロットは機外脱出した。残りの機は侵攻軍を攻撃し、34PSの指揮官のサム・モレット中尉は日本軍掃海艇(?)の爆発で乗機のP-35Aが空中分解し戦死した。デルカーメンへ帰還したP-35Aは、日本軍戦闘機により地上で捕らえられ、12機が破壊され、6機が損傷した。 残る8機のP-35Aは戦った。12月24日、6機がラモン湾の日本軍上陸を攻撃したが、与えた損害は少しだった。結局、残る機体は、1942年1月6日、バターン基地に送られた。数機のP-35Aは、バターン基地に近づいたとき、一見して日本軍のゼロ戦に似ているため、神経過敏な米軍銃手によって撃墜された。1月11日、飛行可能な2機のP-35Aは、デルモンテ基地行きを命じられた。これら2機は、フィリピンで作戦可能な最後の4機の米陸軍戦闘機のうちの2機だった。 最後のP-35Aは、ネグロス島において侵攻してきた日本軍に包囲された2名の米人救出作戦を行った。ジョン・ブラウネウェル中尉は、P-35Aを米人の近くに着陸させ、後部胴体に押し込め、デルモンテ基地に無事戻った。4月29日、フィリピン空軍のラモン・ゾーサ大尉は、残存するP-35Aの1機に100ポンド爆弾を2発携行し、モカジャラー湾の侵攻軍を攻撃した。同様の攻撃は5月2日と5月3日にも繰り返された。5月3日の攻撃の後、ゾーサはP-35Aを隠された小さな飛行場に着陸させた。これがフィリピンでのP-35Aの最後の飛行であった。 フィリピンでの飛行を終えるまで、4CGは精鋭の日本軍に対して時代遅れの飛行機にもかかわらず、特筆すべき記録を残した。彼らは約6機の日本機を撃墜し、加えて地上で30機を破壊した。P-35A飛行隊全体は壊滅したが、実際に日本軍戦闘機に撃墜されたのは2、3機であった。大部分は地上で破壊されたか、味方から撃ち落とされたのだった。 フィリピンに送られなかった15機のP-35Aの大部分は、RP-35Aと改称され【訳注:Rは偵察型ではなく、性能が劣るため敵との交戦が制限(restrict)されたことを意味する】、米本国の訓練部隊に配備された。エクアドルに12機のP-35Aが輸出されたという過去の報告は誤りであることが分かった。エクアドル空軍は4機のex-【輸出型】レーサーを購入し、短期間運用した。これらの機体を武装して戦闘機として使おうという企ては知られているが、その企てが成功したかどうかは明らかではない。・・・』 実際に撃墜したかどうかはともかく、2機の零戦の撃墜を「記録」したことは事実である。虚偽申告でなければ、少なくとも撃破くらいはしただろう。善戦と言えないだろうか。
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塗装前の最後の小物。残るは脚まわり、プロペラ、機銃など。 |
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左舷側。キットすなわちP-35A。なお、正しいP-35Aはフラップが4枚。たしかにカウルフラップを広げると吸気効率が悪くなるね。 |
カウルフラップは3枚で、赤線の分割ライン。点検パネルも赤が正(ここはP-35Aも同じで、キットは間違い)。黄色×は埋めるべきライン。 |
キットの右舷側。 |
同様に赤線が正しい分割ライン。P-35Aのカウルフラップ分割ラインや点検パネル分割ラインは、左舷、右舷ともこれに準ずる。 |
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キットの脚カバーとハセSBDのタイヤ。ホイルは自作。 |
真鍮棒にタイヤを「ぺろぺろキャンディー」のように串刺しにするのだ。 |
これを再現するには、クレオスのメッキシルバーの吹きっぱなしというのもあり得るが、それならリベットは打ちたいところだし、雑な表面仕上げが目立つのは必至。それを誤魔化すにはクロームシルバーのハイブリッド塗りしかない。今回はベースにスーパーファインシルバーを吹き付ける。そしてクロームシルバーのビン生を平筆でドライブラシ。主翼などはいくつかのパネルで区切ってマスクしながら作業する。動翼のアルミドープ部の表現はスーパーファインシルバーに少量の#1白を混ぜたもの。 |
#SM01スーパーファインシルバーで下塗り。これにはエアブラシを使用。 |
#SM06クロームシルバーでドライブラシ。すなわちハイブリッド塗り。窓のマスクは剥がしてないが、セロテープなのですぐに塗料がはがれる。 |
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写真では違いが分らないかもしれない。実際にはかなり違うんだけど。 |
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ブレードを丁寧に削って薄くする。スピナ部にちょいちょいとディティールアップ。 |
脚カバーはホイルキャップにかからない。鉛筆の線のところまでカバーを削る。 |
紺には、いつもの自作インシグニア・ブルーを使用。これは相当黒っぽく調合しているが、この時代のマーキングにはもう少し明るく青味の感じられる方が似合うかも。赤は#327サンダーバーズカラーのビン生。この色、意外と隠蔽力が小さく、満足な発色となるまで厚吹きとなってしまう。 |
紺を吹き、マスキングしてその上に白を吹いたところ。ラダーの白/紺のみ突合せで塗る。 |
さらにその上に重ねて赤を吹く。ウォークウェイは自作チャコールグレイ(黒8白2)。 |
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黄色のためのマスキング。動翼も色が気に入なかったりで、塗りなおす。 |
マスクをはがしたところ。シルバードープは#8銀+クリア。このあと黒縁を塗ってインレタ貼れば出来上がり。 |
インレタは、アドマさんにP-47と合わせてマックスラボを発注。安くて対応がよいので、おすすめ。貼り付け時にちょっとしたトラブル。大きいレターでは、念入りに転写したのが裏目に出て、銀肌が粘着部に持って行かれる。やはり、銀塗装にインレタは鬼門だ。P-47がうまくいくか心配。 |
黒フチ用のマスキング。 |
インレタ。必要な部分をパラフィン紙ごと切って、そのまま位置決め。決まったところで端をテープで止め、紙を抜き取り転写する。 |
アンテナ線は、この時代の米陸特有のかなり複雑な張り方。写真では明瞭に分かるものが無く、ミニインアクションの三面図が頼り。素材は、φ0.090mmの極細透明テグス。これは、鮎釣り用の黒色テグスと異なり加熱により縮むので、緩く張ってからドライヤーで慎重に加熱して、適度な張りに調節する。モデル本体を溶かして変形させないように注意してね。 テグス同士は結んで瞬着を点付け。胴体や主翼への接着は、0.3mmバイスで開孔し、テグスを突っ込み、瞬着を付けた伸ばしランナーを差し込む。ただし、キャノピ上部は、孔を貫通させると削りカスが中に入るから、孔は貫通させず、伸ばしランナーを接着してテグスを巻く。あとでよ〜く図面を見ると、右舷胴体から出ている線は無いのが正しいかも。取ると跡が汚いし、にぎにぎと精密感がアップするからと、そのまま。 ということで、ピトー管を残して妹より一足先にほぼ完成。 |
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本文中に書き忘れた部分も含め、改めて今回の塗装工程をおさらいすると、サフの下地にスーパーファインシルバーで下塗り。次にクロームシルバーでドライブラシ。つまりハイブリッド塗り。その表面を3Mのスポンジヤスリで軽くスクラッチしてから、クロームシルバーを薄くエアブラシ。ガイアクリアーを薄く吹き、マーキング塗装、インレタ貼り。マーキングの段差をペーパーで均してさらにガイアクリアーのコート。コンパウンドで磨かずとも、かなりの艶。 動翼の羽布部は#8シルバー+クリアでシルバードープの雰囲気。プロペラブレードはクロームシルバーにメタルカラーの銀磨きを少々。
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この時代の米陸機、まだいける。
次はコンペのライバルってか?