セバスキー P−35
Seversky P-35




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P-35 of the A flight leader of the 39 PS 31 PG, Selfridge Air Base during 1940.



















 始まりは2人の同じ名をもつグルジア人であった。


 アレクサンダー・カルトベリは、1896年グルジアのトビリシに生まれた。パリで航空工学を学び、1927年渡米。1931年、同じくグルジア出身のアレクサンダー・セバスキーと出会い、セバスキー航空機社(1939年、リパブリック社に社名変更)の主任設計者となる。

 そこで彼はセバスキーSEV-3水上機を設計し、その派生型である単座戦闘機SEV-1XPが、1936年に陸軍航空隊からP-35として77機の契約を得た。同時期の列国の新鋭機と比較して、お世辞にもスマートとは言い難い姿であったが、前縁が直線で後縁が曲線という主尾翼、キャノピから垂直尾翼まで続く胴体の背、そして何よりセバスキーS-3という独特の翼型に、P-47にまで継承された基本デザインを見ることができる。

 まずそれはP-43ランサーに引き継がれた。同じエンジンながら、新たにターボスーパーチャージャーを装備し、その吸気、排気ダクトを胴体下部に収めた。また、全長が延び、不細工な後方半引込脚がオーソドックスな内側引込脚になるなど、各部がリファインされたが、特徴的な主尾翼の形状は踏襲された。続くP-47は、エンジンをP&W R-2800に換え、それに伴い全体に大きく重くなったが、各部がさらにリファインされた他は、P-43の特徴をそのまま受け継いだ。

 P-35に主翼機銃の追加などの改良がされたP-35Aは、第2次大戦の緒戦に戦火の洗礼を受けた。フィリピンで日本軍と対峙したP-35A部隊は、開戦からわずか数日で壊滅的損害を被り、以後P-35Aがアメリカ軍で実戦に使われることはなかった。しかし、既にその半年前にP-47の原型機XP-47Bは初飛行を終えていたのだった。


 作品は、1940年ミシガン州セルフリッジ基地における第31追撃飛行群第39追撃飛行隊Aフライト隊長機である。欧州では第2次大戦が始まっていたが、まだアメリカは参戦してない。磨き上げられたジュラルミン肌にその余裕が感じられる。




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