カーチスP-36A製作記 その3
2008.5.30初出
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その前に、どんな塗装&マーキングにするかだが、本ページタイトルがP-36AであってHawk75でないことからお気づきだろう。フィン空でもフレンチ三毛猫でもなくて米陸ナチュラル・メタル・フィニッシュ(NMF)。P-35と同様、スクラッチ銀塗装で、キンキラキンの仕上がりを目指す。 |
下地にスーパーファインシルバー(SFS)を吹く。キズ、凸凹、面の不連続など、沢山アラが見えてくるが、この際無視。 |
キャノピとプロペラもSFS。キャノピフレーム内側色としてダークグレイを先に吹いておく。ホントはNMFだと思うが裏表銀だと手抜きに見えそうで。 |
仕方なく(?)、実機写真はないが戦歴としては米陸P-36中でピカイチの15PG 46PS所属機番「86」Phil Rasmussen(ラスムセンと読むのかな?ドイツ語読みならラスミュッセン?)少尉機とする。少尉は1941年12月7日、真珠湾攻撃の迎撃戦でVal(九九艦爆)1機を撃墜したとされている。有名機なので塗装図は事欠かず、マーキングを模したレストア機も現存している。 問題なのは、こういう塗装図関係って、あてにならないんだよね。そこは承知で、塗装図を参考に他部隊のお作法など参考に推測する。まず最初は胴体側面に大描きされた「86」のサイズと書体。塗装図により太さ縦横比などまちまち。塗装図よりは真剣に考証しただろうという期待を込めてレストア機にならい、高さ32インチ(1/72で11.3mm)。 主、尾翼の各種マーキング類も、塗装図によりてんでばらばら。翼下面の「U.S.ARMY」は、カーチス工場で塗装されたのではないかと考え、P-36で一般的な位置とサイズとし、写真から割り出して高さ22インチ。翼上面と垂直尾翼はおそらく部隊での記入で、15PGのは不明だが1PGなどの例から高さ15インチの「15P48」が左翼上に、高さ8インチの「48」と「15P」が尾翼(この辺になると好みもあり)。インシグニアは直径30インチとする。 機首上面のアンチグレア塗装も悩ましく、NMFには一般的にはオリーブドラブだが、どうもこの時期のP-36にODは見あたらず、黒ばかり。塗り分け位置も不明。さてどうしよう。ともかく、将来実機写真が出てくれば「あちゃ〜」になるのは間違いないなあ。 |
強力援軍到着。K氏にマスクシートをカットして頂く。毎度感謝至極。試しに貼ってみて、一人ほくそ笑む。 |
ゼムケの手記(零戦製作記に記述)と同様、大変面白く一気に読んだ。著者自身の体験を語る部分は全体の半分にも満たず、残りは彼の仲間達のエピソードが占める。中にはジェンタイルといった有名エースもあるが、4FSで飛び、戦死し、あるいは捕虜になり、あるいは生き延びた無名のパイロット達の姿が語られている。 彼は小隊の4番機(つまり一番下っ端)からスタートし、最終的には336FSの隊長となり、時に4FG司令の代理としてFG全体を指揮するまでになったが、愛機VF★Bにて地上銃撃中に対空砲火に被弾、捕虜となった。彼は士官学校出ではないが、学歴が高く、戦後実業界で成功したことからも知的水準の高さがうかがえ、単なる「血湧き肉躍る」的な戦記とはなっていない。特に捕虜として連合軍の空爆を受けるくだり(偶然にもゼムケも同じ)は読み応えがある。 脳天気な大戦機マニアとしては、スピット、ジャグ、マスタングの乗り較べに興味大だが、そこはあっさりとしているのが唯一残念かな。まあでもP-47の無類の頑丈さ、相対的にP-51の弱さが感じられるし、飛行性能ではスピットが1番だ(といってるように読める)とか、それなりに面白い。続編もあるようで、Amazon.comではよく分からなかったが、たぶん「The Last of the Knights」というタイトルだと思う。 ゼムケ手記でも思ったのだが、グッドソン、あるいはゼムケがもし零戦に乗っていたら、確実にこの手記が読まれることはなかっただろう。零戦なら彼らは3回以上戦死しているはずだ。撃たれる前に無線で危機を知らされ(日本の無線は役に立たず)、ぼこぼこに撃たれても英国に帰り着き(零戦なら機上戦死だ)、いよいよ撃墜されても捕虜になった(日本軍将兵の多くが自爆を選んだ)。逆に言うと日本軍は3倍以上の失わなくてよい搭乗員を失ったわけで、零戦を作りながらこの差について考え込んでしまう。
Goodsonの乗機写真
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実機のカバーは4分割。脚上部のカバー2つを追加。カバーの穴からチラ見えのトルクリンクは伸ばしランナー。 |
タイヤも仮り止めして別角度から。脚柱は2mmほど長さをカット。 |
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とりあえず金属部の銀塗装は終了。翼前縁のようにハイライトが当たるとスクラッチが分かる。 |
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胴体の機番。デリケートな銀塗装なので、手脂で粘着剤を弱めて貼る。 |
できあがり。機番、アンチグレア、ウォークウェイは黒:白=8:2のダークグレイで。 |
下面のU.S.ARMYも同様。いや〜ほんまラクチン。ありがたや。 |
できあがり。マスク境のバリは、ラプロス#6000で磨き落とす。 |
インシグニア。まずブルーのマスキング。 |
いつもの自作インシグニアブルーを吹いて、白塗装のためマスキング。白と紺は突き合わせで塗ってもよかったかな。 |
羽布張り部は#8銀+#46クリア。白など混ぜなくとも、金属部のスクラッチ銀塗装との質感の違いで、いかにもシルバードープという雰囲気。 |
ラダーは銀、紺、白、赤の順番で、マスキング&塗装。銀、紺、白は突き合わせで塗り、赤のみ白の上から。 |
できあがり。赤は#327:FS11136サンダーバーズレッド。このあとマスキング境のバリを落とす。 |
マーキング塗装終了。インシグニア中心の赤丸はデカール、尾翼などの小レターは自作インレタの予定。 |
ところが たっぷり吹いて、翌日見ると、一瞬目の前が真っ暗に・・・ |
フューチャーが白濁。マンマミ〜ア〜。まるで出来の悪い玩具のよう。 |
尾翼のアップ。悪夢だ・・・ |
ペーパーで全て落として一から塗装やり直しか(ハァ〜)。しばらく蜜柑山にお帰りいただくか・・・。いや、アンモニア水でフューチャーが落ちるという記述があったぞ。と、小皿に取ったアンモニア水を筆でゴシゴシすると、キレイに 落ちて一安心。アンモニアによる塗装面への影響は皆無。ただし臭いは強烈。スプレーブースが大活躍。 さて、原因。おそらく、弾かないようにと加えた食器洗剤の量が多かったか、相性が悪かったかで、厚吹きと相まって悪さをしたと考えられる。もっとも、前回F-104で洗剤添加したときは問題は発生せず、洗剤の量も同じ程度なのだが。洗剤入れないと弾くリスクがあるし、難しいところ。なお、水やアルコールなど、その他の添加物は一切加えていない。 やっぱ、フューチャーは難しい(私にゃ鬼門)。
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0.14mmプラペーパを2枚重ねて瞬間で固定。ただし大きさをミスしてボツ。 |
カバーは0.3mmプラバンに接着剤を塗布したもの。脚柱は0.8mm真鍮線。 |
主脚もクロームシルバーで塗装し、ブレーキパイプを追加。後方のロッドは翼取り付け後に現物合わせの予定。 |
翼に仮り組み。タイヤはハセガワ1/72バッファロー。 |
キャノピできあがり。アップだとアラも見えるが、ゼロから自作にしてはまずまずか。薄くてすぐ割れそう。 |
水平尾翼は、形を直して、端部を薄く削って、リブ再生して、ヒンジを追加してと、結構手間がかかる。 |
プロペラ&エンジン。 |
赤丸はAMDデカールから。スライドキャノピは両面テープで仮り止め。さあ、クリアコートどうしよう??? |
こんなロケーションで撮影。周囲から見ると怪しい人物だろうなあ。 |
俯瞰気味のアングルで背景の邪魔ものを写さないようにする。 |
1941年12月7日の朝、真珠湾第一次攻撃隊がウィーラー基地を攻撃した。飛び起きたラスムセン少尉は、パジャマ姿にコルトを下げて駆けつけた。殆どのP-36は地上で炎上していたが、46PS飛行隊長のサンダース中尉、サッカー少尉(小隊長)、ラスムセン少尉、スターリング少尉の4機のP-36が離陸した。 4機が高度を取ると、眼下にカネオヘ基地を銃撃する6機の日本軍機が見えた。ラスムセンはVal(九九艦爆)と記憶していたようだが、これは第二次攻撃隊の蒼龍所属零戦5機(藤田中尉、厚見一飛曹、石井二飛曹、高橋一飛曹、岡元二飛曹)とベローズ基地を攻撃後の飛龍所属零戦1機(松山一飛曹)であった。零戦に襲い掛かったP-36の最初の一撃で、サンダース隊長は編隊長機(藤田)を攻撃、サンダースは急降下した藤田を撃墜と報告した(実は誤認)。 ラスムセンは機銃が故障し、30口径は弾が出なくなり、50口径は出っぱなしとなったが、目の前を横切った零戦2機(厚見、石井)を撃った(この時点では両機は飛行に支障ない模様)。一方、スターリングは岡元を追尾し銃撃するが、背後から藤田に撃たれ、サンダースやラスムセンの目前で海へ墜落、戦死した。直後、サンダースは藤田に追いつき銃撃、命中するが岡元、藤田とも雲に逃げる。実は、当初サンダースが搭乗を命じたのはスターリングでなくノリス少尉であったが、背が低く、ショルダーハーネスが合わずに機を降りたところを、スターリングが「母さんに届けてくれ。俺は戻らない」と腕時計を整備兵に渡し、代わりに飛び乗ったのだった。 別の3機の零戦(蒼龍の小田一飛曹、田中二飛曹、高島三飛曹)が到着し、サッカーを攻撃、彼は機体を損傷して戦場から離脱する。機銃の治ったラスムセンは田中を攻撃し、煙を認め不確実撃墜が記録される(田中は帰還)が、藤田から銃撃され、ラダーケーブル、油圧パイプ、尾脚を撃たれ、雲中に逃れて辛くも基地に戻る。2発の20mm弾がシート後方の無線機にめり込んでいた。無線機が彼の命を救ったのだ。さらに47PSのブラウン少尉と46PSのムーア少尉の2機のP-36が加わり、戦場から離脱する藤田、厚見、石井の3機を攻撃し、厚見、石井は未帰還となった。 結局、この戦闘を総括すると、6機のP-36が9機(11機という記述もあり)の零戦と交戦し、米側は戦死がスターリング少尉の1名、重大損傷2機。日本側未帰還は蒼龍の2名であった。ただしこの交戦の前に、蒼龍零戦隊長の飯田大尉はカネオヘ基地銃撃中対空砲火に撃たれ自爆し、また飛龍の松山一飛と僚機の牧野田一飛はP-40Bを2機撃墜している(米側は1名戦死、1名負傷)。 さて、真珠湾のP-36では「パジャマ姿のパイロット」ラスムセンが有名なのだが、以上のように実際は飛行隊長であるサンダースのほうが階級も当日の実績も上である。それでもなぜラスムセンなのか? 私の邪推だが、「リメンバー・パールハーバー」のキャンペーンには彼(=未熟だが愛国心に燃えた若者)の方が都合がよかった、ということでは?? なお、ラスムセンは、真珠湾後は太平洋戦線でP-39などで戦い、戦後も空軍に残り大佐で退役した。一方、日本側で終戦まで生き延びたのは藤田、岡元両氏の2名のみ、他の7名はミッドウェイ、ソロモン、比島などで次々と戦死した。
修羅の翼 零戦特攻隊員の真情 角田和雄著 光人社 より引用 昭和十六年十二月八日、日本は遂に戦争に突入した。一瞬、大丈夫だろうかと感じた。何日か過ぎてハワイ攻撃の戦死者が発表された。攻撃隊の中にカネオヘ飛行場を銃撃し、燃料タンクに被弾、部下を母艦への帰投針路に向け、自らは引き返し飛行場に自爆された飯田房太大尉の記事が大きく出ているのを発見して驚いた。そして、疑問と不満を感じた。 蒼龍を退艦する時、あれほど頼んだのに、どうして私を列機に呼んでくれなかったのか、もちろん艦隊には私以上の熟練者が大勢揃っていただろうから、これは仕方ないとしても、日曜の朝、奇襲攻撃が成功しているのに、なぜ被弾するほどの反撃があったのか、蒼龍の列機は飯田大尉が一人突っ込んでいくのに、ハイ、そうですか、と真っすぐ帰って来たのだろうか。当時の私たち搭乗員の心情では、自分の隊長が自爆すれば、列機も当然後を追って自爆すると信じていたからである。(中略) 昭和十七年の正月になって兵員の臨時異動があった。古い教員方の幾人かが転出して、私の班に偶然蒼龍より若い艦爆操縦員が教員として転入してきた。(中略) 初めはなかなか話さず、戦闘機の方のことは分らない、と言っていた彼も、 「班長の熱心さには負けました、実はこれは絶対に口外してはならぬ、と箝口令が敷かれたことで、他人には話せないことですが、あまり班長が飯田大尉のことを心配されるのに感じて言います。実は、飯田大尉は帰れないほどの被弾はしていなかったらしいのです。私も直接聞いたのではないのですが、分隊長は攻撃の前日列機を集めて『この戦は、どのように計算してみても万に一つの勝算も無い。私は生きて祖国の滅亡を見るに忍びない。私は明日の栄ある開戦の日に自爆するが、みなはなるべく長く生き伸びて、国の行方を見守ってもらいたい』という訓示をしたそうです。予定通り引き返した時も燃料は洩れていなかったということでした。しかし、このことは、その日のうちに艦内全員に口外することを禁止されたのです」 とのことだった。 私はそれを信じていた。そして最近になって、当時の攻撃隊編成表を見ることができた。そして飯田大尉直卒の列機二、三番機も共に続いて自爆していたことを知ったのであった。(中略) 飯田大尉こそ私の十一年半の海軍生活の中でただ一人だけ、この人とならいつ、どこで死んでも悔いはないとまで心服していた士官だったのである。 よい本である。未読の方、とくに若いモデラーには是非一読をお奨めする。また、前述Flight Journal誌記事にも、飯田大尉の最後について藤田氏の回想が記述されているので、テキトー訳で引用する。 藤田中尉には飯田大尉の零戦から燃料が漏れているのが見えた。9時2分、『飯田大尉は、振り向き敬礼した。そして口を指さし頭を振り「もう燃料がない」ことを示した。そして、自分、それから真下を指し、さよならと手を振り、鋭く旋回すると急降下していった。』 飯田大尉は基地宿舎の近くに自爆した。 角田、藤田両氏の記述には微妙な食い違いがあり、私には真相は分らないが、両氏ともそれぞれ正しいのだろうと思っている。Flight Journal記事では、石井二飛は米側記録で「不確実撃墜」ながら未帰還であり、これも自爆と考えられないだろうか。 あらためて両国の戦死者の冥福を祈る。合掌。 |
冬の朝の凛とした空気の中で撮影。あの日の朝もこのように日の光を受けて輝いていたのだろうか?
映画トラ、トラ、トラの銃撃シーンを思い浮かべつつ、ラスムセン少尉が飛び乗るところを想像していただければ幸い。
これらのうち、5と6はともにインアクションシリーズだが、重複する写真はほとんどなく、どちらも「買い」だ(5は入手難かな)。8はフライングタイガースのP-40B(正しくはHawk81-A2)〜P-40Eで、P-36は出てこないが翼機銃関係などで鮮明な写真があり、参考度が高い。フライングタイガースの資料としては、鮮明な写真多数で一級品。17もP-40のみだが、RAFとともに北アフリカで戦ったRAAF部隊のトマホークがある。20も同様P-40のみだが、フライングタイガースの活動が日本語で読める。 12から14はフィン空におけるP-36(というかHawk75)。12はフィン空を概観するのに手頃な1冊で、Hawk75の写真も多い。15、16はフランスの出版社。15はハードカバー400ページ近い大著だが、印刷の質が悪く写真が不鮮明なのが残念。16はフランス軍使用機に特化した内容。ディティール写真や塗装図などは、いつもの体裁。こうしてみると、洋書も英語以外の本が多いな。
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