P−40L製作記 その3

前ページへ




ついに完成!




 塗装 



■ 325FG「チェッカーテイルズ」 

 塗装は、以前からチェッカーテイルズの司令官であるオースティン(Gordon H. Austin)中佐機と決めている。オスプレイ本とスコドロの325FG本をネタ本に、歴史考証しよう。

 325FGは、1942年6月24日に編成された。1943年1月1日、ヴァージニアに移動し、そこで新しいP−40Fを受領、空母発進の訓練を受けた。1月8日に空母USS RANGERにて北アフリカへ出航した。1月19日、RANGERから発進した325FGの72機のP−40は、カサブランカ近郊のCazes飛行場に着陸した。

 最初の実戦ミッションは1943年4月17日で、36機のP−40によるB−25のエスコートであった。目標上空で、2機のBf109の迎撃を受け、1機のP−40が撃墜された(パイロットは脱出後生還)。北アフリカの枢軸軍は1943年5月13日に降伏したが、それまでに20のミッションを完遂した。

 北アフリカを奪還したNAAF(北西アフリカ空軍)の次の目標は、イタリアとアフリカの間に横たわる島々パンテレリアと、イタリア西方の島サルディニアであった。NAAFの主力が前者を攻撃する間、325FGは後者を目標とした。

 サルディニアでの最初のミッションは5月13日で、34機のP−40がチュニジアの基地を飛び立ち、100マイルの海を越えて目標まで爆撃機を援護した。その後、9月14日の戦闘掃討ミッションまでの間に、37回のミッションで撃墜は102機、損失は16機、4名のパイロットがエースとなった。
 1週間後に島は降伏し、2日後に325FGはP−47サンダーボルトに転換した。325FGのP−40はMTOに残る4つのFGに回され、チェッカーテイルはドラブで塗り潰された。(以上は主としてオスプレイによる)

 スコドロ本には、北アフリカを含めた325FGのP−40における全戦歴がある。これによれば128ミッション、135機撃墜、35機損失、投下爆弾33万ポンド。撃墜135機の内訳は、Bf109が96機、マッキ202が26機、その他にMe323、Ju52、シュトルヒ。損失の内訳は、エスコートが15機、爆撃が3機、戦闘掃討が9機などである。

 戦後の再調査では撃墜133機、損失43機。損失のうち12機は敵戦闘機によるもの、6機が対空砲、エンジントラブル2機、11機が作戦上の損失、12機が理由不明の未帰還。味方の戦果が過大なことを割り引いても、よく「二流機」でメッサー相手にこれだけの記録を残したことに驚かされる。

■ オースティン中佐

 ゴードン・オースティン中佐は、1913年9月1日生れ。父親は陸軍少将。36年士官学校卒業、1940年5月にハワイのヒッカム基地の47FSに配属された。1941年12月7日(現地時間で)の真珠湾攻撃では47FSのP−40は日本軍と交戦、8機撃墜4機不確実を記録した。
 1942年12月10日に325FGの指揮官となり、北アフリカでの参戦からサルディニアの戦闘の半ばまで、部隊を指揮した。P−40で100時間の戦闘飛行を記録し、3機を撃墜した。

 325FGは約7ヶ月間と短い在任で、1943年7月5日、B−26マローダーを装備する319BG(爆撃飛行群)の指揮官に転任した。44年12月に本国の陸軍本部に異動し前線から離れた。その後も米空軍の要職を歴任し、1966年少将で退官した。オースティン中佐の経歴は、こちらも参考にした。

■ P-40L "Lighthouse Louie"

 オースティン中佐の乗機は、P-40L-5-CU s/n42-10664 "Lighthouse Louie"機番44である。彼の後の司令官Bob Baseler中佐のP-47Dの機番が88なのは、何か関連性があるのかな。Lighthouse Louieのノーズアートは、325FGが敵地の海岸線にある灯台で射撃練習をしたことにちなむ。

 本機は、スコドロ本にバッチリの写真がある。機体全体を左前方から写したもの、ノーズアートのアップ、コクピットに収まる中佐のアップである。このコクピット付近の写真では、胴体左側に記入されたシリアルNo.がうっすらと読める。

 で、カラー写真集を見ていると、58ページに324FG所属機があって、尾翼にシリアルが書かれているのだが、それが210664。ん?なんとオースティン機と同じではないか!!  よく見れば尾翼のチェッカー、ノーズアートと胴体の機番をドラブで塗り潰してある。これもオスプレイ本の記述のとおりだ。

 この写真で目を引くのが、ホイルキャップの赤。スピナと同じ、少しダルで朱色がかった赤である。なるほど、モノクロ写真でもホイルキャップとスピナの明度は同じだ。機体下面色は、文献などではアズールブルーとされている。その正確な色調を知っているわけではないが、この写真の下面色は、私が同色に持っている印象ほどは青味の強くないブルーグレイだ。上面色は、RAF砂漠迷彩と同じ色調のダークアースとミドルストーンである。

■ 調色 11/22追加

 MTOにおけるP−40の塗装に関しては諸説あり、例えばミドルストーンは米軍規格のサンドだとか、下面はニュートラルグレイだとかいう説もあるのだが、前述のとおり「そのものズバリ」のカラー写真があるので、とにかくこの写真をもとに調色する。とはいえ、写真により色味が異なり、どれに合わせるかというのは悩ましいところだ。以下、自分のためのメモ。後になると配合を忘れるので。

 #21ミドルストーンは白を2割程加え、さらに#22ダークアースを少量加える。ダークアースは#22ビン生では赤味が強いので、スピットファイアXIVと同様に黄色を2〜3割混ぜる。写真では緑がかって見えるものもあり、オリーブドラブを隠し味に。下面色は、#335ミディアムシーグレイをベースに青系(#65インディーブルーと#328ブルーエンジェルスブルーを同量)を加え、さらに#62白3割程度で明度調整する。出来上がってみると、退色した米海軍のブルーグレイのような感じ。

 機首の赤は、#327サンダーバーズ赤+#114RLM23に黄色を3割程加え、#13ニュートラルグレイで彩度を落とす。尾翼の黄色は、#58黄橙色に青微量で赤味を少し抑え、さらに白で退色感を出す。国籍マークのインシグニアブルーは、いつもの自作カラー。レシピは#92半艶黒と#326サンダーバーズ紺を半々に混ぜ、それに白1〜2割で明度を調整。今回は砂漠での退色を考慮して、白を加えて普段より明るめに調色。さらに主翼は胴体よりも明るく。

■ MTO迷彩についての考察

 MTOのP−40が、どんな塗料を用いて、どこで塗装されたか?と考えると面白い。325FGのP−40は、ヴァージニアから空母に乗せられて北アフリカに行った、という事実は1つの重要な鍵。空母上で既に砂漠迷彩の状態で撮影されているから、少なくともアフリカで塗装されたのではない。空母内や米国内の基地で再塗装された可能性もあるが、私は工場塗装ではないかと推測する。パターンが揃っているのも一つの根拠。いずれにしろ米国製塗料だと思われる。

 しかし、米国製塗料ならばミドルストーンでなくUSサンド616であってもよさそうだが、カラー写真の色調はそうではない。何故だろう。キティーホークを英軍に供与するにあたって、英軍の要請でRAF仕様に準じて塗装することになり、そのままF/L型も同様になったのか、などと推測するが確証はない。

 下面色がまた謎。写真の色調は、米軍規格にも英軍規格にも似た色がない。アズールブルーのつもりでカーチス社が調達したペンキだろうか。写真ではさらに青味が強い別の下面色があるようにも見えるが、実際に2色あったのか、写真のいたずらかは何ともいえない。

 なお、57FGの上面全体がタンの機体は、外したフィレットの下に暗色が見られる写真があり、これはどこかで再塗装されたことが明らか。これこそUSサンド616かも。


■ 迷彩塗装

 塗装の手順については、いつものとおり。以下連続写真で。



下塗りは#1200サフェーサ。翼後縁や窓枠には光が透けないように黒+銀を吹く。チェッカー部分には下塗りの白。ここで、一旦#2000ペーパーで研ぐ。

迷彩パターンをフリーハンドで吹き、この段階でも#2000ペーパーで研ぐ。

境界はMrペタリ。実は色味が気に入らず、吹き直している。(けどまだ気に入らない)

下面はカーチス・アズールブルー(と勝手に命名)。グレイを混ぜて、控えめに汚し表現。


■ 迷彩パターン

 既存資料は特に主翼上面のパターンについて間違いだらけ。AMDデカールのインストも大間違い。信用しないように。私はハナから信用してないから、実機写真からパターンを読み取る。325FGの各機のパターンはほぼ統一されており、複数の写真から、ほぼ機体全面についてのパターンが把握できる。

 さて、この迷彩パターン、よく見るとRAF戦闘機のパターンと「原則的」に同じである。ということは、やはりRAFから「指導」があったのかな。



カーチス社の工場での迷彩塗装は、型紙を使用しており、境界はクッキリとしている。まあ、本機がそうだったかは確かではないけど。

右側のパターンはこのとおり。ご参考までに。(って一体何人がF/L型作るの?)


■ 再びMTO迷彩について 11/30追加

 これに関して情報をいただいたので補足。『英軍に送られたP−40は、英軍仕様の色指定でデュポン社がカーチス社へ塗料を納めた模様。ただ、同じダークアースでも2種類あり、片方はとても退色しやすかったとの推定あり。』とのこと。確かに文献−2のオースティン機その後では、ダークアースがサンドに近く退色している。といっても、これが2種の塗料のうち退色しやすいものだと言うつもりはさらさら無いが。

 同じ文献のダークアース。写真によってドラブがかってるのと、そうでないのがあり、前者はp.44、p.46下段、p.57、後者はp.55、p.58など。これが塗料の種類の違いなのか写真のいたずらなのかは、私には判別できない。

 北アフリカへ向かう空母レンジャーの艦上、砂漠迷彩の機体に混じってオリーブドラブ単色の機体がある。これらは、北アフリカでもそのままドラブにチェッカーテイルを纏って使用された。もともと全機ドラブだったのを空母内で塗装し、「アフリカに着いたけど、全部は塗りおわらなったぜ」あるいは「途中で塗料を使い切っちまったぜ」だったのか、あるいは米軍司令部からカーチス社への砂漠迷彩の発注が見込み違い(か、カーチス社での手違いか)で、「しょうがない、太平洋向けのを回すか」だったのか。

■ マーキング 

 作業中気付いた点をいくつか。尾翼のチェッカーは、写真から読み取って一辺12インチ(1/48スケールで6.4mm)。だいたいこういうものは、切りのいい数字になっている。スコドロの325FG本を見ていると、機体により黄色と黒の配置が逆になっているものがあって、要注意。

 オースティン機は、かろうじて尾部が写されているので、そこから配置を読み取る。垂直尾翼は部隊に一般的な配置だが、水平尾翼はリバースパターンだ。まあ、たとえ違ってても気付く人はいないと思うが。垂直尾翼の右左、水平尾翼の上下面は同じ配置、つまり黒の裏は黒、黄の裏は黄となる。なお、サンダーボルトでは水平尾翼の下面にチェッカーは無いのだが(ペンキ不足が理由)、ウォーホークでは下面にもしっかり描かれている。

 次に国籍マーク。胴体のものは、写真から割り出して黄色の縁を除いて直径36インチ(19.1mm)とする。主翼は、スコドロ本にはっきり分る写真がないが、世傑の真上から撮影した写真では胴体より小さく、これも写真からかろうじて割り出して32インチ(16.9mm)とする(※注)。
 ところが、AMDデカールでは、どちらも同じサイズで18mmがセットされており、要注意。あやうく騙されるところだった。ただし、後期になって袖がついた国籍マークでは、胴体と主翼のサイズが同じものがある。325FGでは、主翼下面のみ袖つきタイプになっている機体があって、おもしろい。

※ モデルアート別冊No.713「アメリカ陸軍航空隊戦闘機の塗装ガイド」によると、1943年3月の通達により、主翼は30から60インチ、胴体は20から50インチの5インチきざみと決められたとのこと。従って、多少の時期の前後はあるが(本機が塗装されたのは通達が出る前)、おそらく胴体35インチ、主翼30インチが正解。しかし、知ったのは完成後。残念。なお、米軍の場合、袖つきタイプでも星の頂点が内接する円のサイズで表すので注意。

 325FGでは、黄色の縁が無い機体もある。トーチ作戦は1942年11月に始まっており、時期的には微妙で(325FGのアフリカ上陸は1943年1月)、あまり指示が徹底されなかったといったところか。黄縁ありの機体でも、その幅はまちまち。オースティン機はそれほど細くない。また主翼下面には縁はつかない。

 では作業。チェッカー→国籍マークの紺→黄縁→星の白→機番という順序。インシグニアブルーは退色を考え、白を多めに混ぜる。最後にフラットクリアをマーキングの周囲にたっぷり吹いてから、境目の段差を研ぐ。



チェッカーは2回に分けて塗装する。まず6.4mm幅に切ったテープで1回目のマスキング。

1回目の塗装が終了。次にこの■を位置決めの基準に2回目のマスキング。

できあがり。黒は白を2割程混ぜているが、黄色とのコントラストで真っ黒に見える。

紺丸を吹き、黄縁のためのマスキング。中心部から貼っていき、その後黄色部分をはがす。

できあがり。紺と黄は「突き合わせ」で塗っている。

次に白星をマスキングして塗装。この後軽く「めくれ」を取ってフラットクリアを吹き、めくれを研ぐ。


 機番がまた悩ましい。オースティン機の機番が写った写真は手元に無い。同隊機では機番の書体、サイズは、ほぼ統一されていて、24×20インチ、文字の太さ4インチ。機体により、サイズが小さかったり、文字が細かったりという例外もある。統一サイズの機体でも、記入位置には微妙な差異がある。
 で、オースティン機の機番を考える。デカールの機番が、これまた標準サイズよりかなり小さめで、ひょっとして根拠があるのか?という一抹の疑念があるが、ここは「えいやっ」と標準サイズに決めてしまう。だってその方がカッコイイんだもん。



機番はマスキングテープの上に文字の幅に切ったテープで「4」を描き、それをガイドにテープを切り出す。

これでマーキング塗装は、ほぼ終了。


■ デカール

 機首のノーズアート、コクピット左前方のパイロット名の黒四角と撃墜マークはAMDデカールから。例によりサイズがいい加減。ノーズアートは一回り小さい。黒四角と撃墜マークは2回り小さいが、代わりもないので、そのまま使用。デカールの余白は極限までカット。灯台の光を表す白線は、一本一本切り取る。貼り付け面はクリアを吹いてコンパウンドで磨く。

 ところでこのノーズアート、色味が地味。ひょっとして、この黒い文字は本当は赤だったのでは?と疑いたくなる。8AFのマスタングなどを見ても、モノクロ写真では赤は黒く見えることがあるしね。
 プロペラのデータはAMDのP−47用データデカール。

■ 小物

 排気管。素直にキットのパーツを使っても特に問題ないのだが、モスキットの縁の薄さも捨て難く、苦労を背負う羽目に。なにしろ6本ばらばらにしてから、並べて接着するのだが、これがうまくいかない。しかも出来たと思ったら、横幅が広すぎ胴体から排気管が突き出てしまって失敗。基部を削って、やり直し。

 タイヤは、新しいキットを買ってきて新たに彫り直す。こんどは1.5mmピッチ。点は0.3mmピンバイスでぐりぐり。中に点が入るので、通常のダイヤモンドパターンよりピッチが粗い。脚まわりでは、後方に付く「H」字形のパーツは、実は左右がつながってなく「II」字形となる。
 主脚カバーのうち小さい方のが厄介。複雑な曲がり方をしているので、再現に頭を悩ます。プラ板だと、曲げても元に戻ってしまう。薄い金属板で作ってみるものの、薄すぎて他とのバランスが悪い。結局0.3mmプラ板を曲げ、内側の補強リブを真鍮線として、形状をこれで保持する。




モスキットの排気管は、一本ずつ切り離して両面テープの上に並べ、瞬間パテでプラ板に接着する。

タイヤのパターンは手彫り。型取りの技術があれば複製して売るんだけど。

小脚カバーの自作が面倒(上段)。主脚関連の部品がごつい(下右)。半分くらいに厚みを削る(下左)。

ピトー管、尾脚柱は真鍮はんだづけ。キットの尾脚より1mm程延長する。右下のパーツは何でしょう?


■ 再々、MTO迷彩(しつこいぞ) 12/8追加

 キットのデカールでもその存在が無視されているのだが、P−40は主翼にウォークウェイが記入されている。それは機軸に平行な1本の細線で、付け根フィレットから1/48スケールで1cmくらいの所だ。で、砂漠迷彩のP−40にも、このウォークウェイやその他に注意書きのステンシルが記入されており、このことから砂漠迷彩は工場で塗装された可能性が高い 。ということで、そのウォークウェイ、マスキングして塗装する。

■ ウェザリング

 今回は少々きつめにウェザリングを施し、砂漠の太陽と砂塵の表現を試みる。退色も埃も明色方向なので、ただ単に明るい色を吹いただけでは「ぼんやり」した仕上がりとなってしまう。そこをいかに「締める」かがポイント。といっても、暗色をパネルライン沿いに吹いただけではねえ。生きた機体のカラー写真を手本に、そこから読み取れる汚れ、退色、チッピング等をできるだけ再現していくことで、リアリティーに迫るのだ。

 ウェザリングはいつもの手法を使っており、特に新しいものはない。まず、全体塗装終了後、極薄に溶いたセールカラーを上面中心に吹く。これは多少まだらになるように、また側面、下面には吹かない。次に、ダークグレイのパステル粉+石鹸水でウォッシング。さらにパネルラインなどには乾いたパステル粉をこすりつけてぼかす。100円ショップの化粧用棒付きスポンジが便利。これはあくまで控え目に。

 次に面相筆での描き込み。パネルエッジやリベット周辺のかすれ、それらの凹みに溜まった汚れ、整備兵やパイロットの靴による塗料のはがれなどを意識して描く。ミドルストーンの塗膜の上にダークアースが塗装されたという「想定」(実際どうだったかは知らないので、あくまで想定ね)で、ダークアースの部分にミドルストーンのチッピングを入れる。Ethell本に、このような状態の砂漠迷彩のスピットの写真があり、それのパクリ。

 実機写真を見ると、パネルラインから滲み出したオイル汚れが目立つ。これを再現しようと部分的にパネルラインに沿って暗色を塗る。隣り合ったパネルの片方に「はがれ(明色)」、もう片方に「汚れ(暗色)」を描くと、あたかもパネルの段差があるように見えてくれる。

 排気汚れは黒+茶とバフを吹く。タイヤにはセールカラー+ダークグレイでドライブラシを施すが、それだけでは足りず、サンドのパステルをまぶす。砂漠の滑走路から運用されているので、実機写真を見ても砂塵でかなり白っぽい。



リベットラインを意識して「はがれ」を描き込む。まだ途中段階。少しずつ「はがれ」の区域を拡大していく。

銀の周囲にミドルストーンを配して、ダークアースの下に塗られたミドルストーンを表現する。

右側はミドルストーンの色調を変えて、左側との違和感が無いようにする。

パネルラインやリベットラインに沿って、はがれ、汚れを描き込む。全体のバランスを見ながら控え目に。


■ 小物

 顎の中にある筒状のスーパーチャージャーインテイクを作る。入り口には円盤型の蓋がつき、おそらくこれを閉じるとサンドフィルター経由となる。エバーグリーンの4mm径のプラパイプの縁を薄く削り、プラ板の蓋をつける。実物もそうなのだが形状が単純で何となく子供の工作みたいで精密感に欠ける。

 航法燈はキットパーツ。インストの指示は機体に0.8mmの穴を開るようになっているが、クリアパーツの凸を切り飛ばす方がよい。ラダーと垂直尾翼をつなぐ円弧状のパーツは、金属で置き換えるとベストだが、面倒臭くてキットパーツを薄く削って了とする。
 増槽の振れ止めは、キットパーツがベース。増槽を仮りどめして振れ止めを接着する。増槽を両面テープで固定することにより、取り外し可能である。

 オーバーフローした冷却液を排出するための小バルジ、これはアリソン型では、右排気管の後方にあるのだが、マーリン型では、右排気管の前下方に移動している。キットからデザインナイフで切り取って移植し、面相筆でタッチアップする。照準リングはファインモールドのエッチング。メタルプライマーに黒を混ぜて塗装。

 P−40のアンテナ線は、張り方にかなりのバリエーションがある。主翼端から垂直尾翼(これはアンテナ柱なしの機体によく見られる)、垂直尾翼から水平尾翼端 、あるいは胴体上部から水平尾翼端に張られる場合もある。アンテナ柱がある機体でも、柱頭から垂直尾翼への他に、枝線が「T」字形になるものと「V」字を横にした形になるものがある。枝線の胴体側引き込み位置も、D&Sを見ると柱の直後や、航法燈の直後といったバリエーションがある。
 なお、「F型とL型の識別法としてアンテナ柱の有無がある」とする資料があるが、そのようなことはない。アンテナ柱の有無は、運用している部隊、戦域による。

 さて、オースティン機だが、それに限らず325FG機の写真は不鮮明でアンテナ線が全く写ってない。ということで、全くの想像(と自分の好み)で「横V」字形に張る。垂直尾翼の取り付け部には穴を開けた真鍮板を埋め込んである。アンテナ線端部の太い部分は、0.3mm真鍮パイプ。今回は渓流釣り用の極細で硬いテグスを使ったので、斜めに張ったテグスがもう一方にうまく結びつけられず、瞬間で点止めしてあるだけ。



デカールの写真を忘れていたので、ここで掲載。余白をカットし、クリアを吹いて研ぎ出す。

スーパーチャージャーインテイクはエバーグリーンのプラパイプで自作。入り口には円盤形の蓋がつく。

マーリン型では、冷却液排出の小バルジがこの位置に移動している。

増槽の振れ止めは、キットパーツを薄く削り、細棒の部分のみ0.3mm真鍮線で置き換える。





 完成 



■ できあがり

 以上で完成。製作期間は3ヶ月余り。製作中ずーっとマーリンホークばっかり眺めていたので、今や自分の中ではすっかりこっちがデフォルトになってしまい、逆にアリソン型が奇異に見えてしまう。いやしかし、改めてマーリンホークってカッコいいね〜。ハセガワからも出れば売れると思うんだけど。でも自分だけのモデルというのは気持ちいいので、本心は出て欲しくないのだ。

 さて、完成した作品を眺める。顎の形には概ね満足。2つのキットを切り貼りする手法は、パテ盛り、木型&プラ板ヒートプレス、プラ板積層といった手法に比べ、簡単で仕上がりがきれい(当社比)。今後マーリン型への改造にチャレンジされる方にもお奨めする。誰かショートテイルのF型を作らない?

 迷彩塗装、マーキング、ウェザリングも自分では満足々々。砂漠で酷使された感じが少しは出せたかな。一方で、今回は基本工作の部分でミスがあって、反省点だ。特に第一風防のすり合わせが不十分で、目立つ所だけに気になる。サンディング不足もあり、機銃周囲の翼下面では、バルジを切り取って後付けすればよかったか。

 F/L型への改造や、細部の考証については、膨大な資料をお貸しいただき、大いに助けられた。そのほかのご支援も含め、改めて感謝。これに応えるべく気合を入れたつもりだが、気合が空回りするのはいつものこと。

 最後に、オスプレイ本から325FGの活動の一端を抄訳(テキトー訳ともいう)にて紹介する。誤訳も多々あろうかと思うので、雰囲気だけ味わっていただければ幸い。


■ サルディニアのチェッカーテイルズ

 1943年5月、北アフリカで枢軸軍が降伏すると、NAAFの主力はパンテレリア(チュニジアとイタリアの間にある島々)に集中した。その一方で、6月から新たにP−40の尾翼を黒と黄色のチェックに塗った325FGは、地中海を越えてサルディニア(Sardinia:イタリア西方の島、イタリア語だとSardigna:サルディーニャ?)への一連のミッションに没頭した。この作戦の目的は、枢軸軍戦闘機隊を引きつけ、シシリー防衛を手薄にすることにあった。

◆  ◆  ◆

 325FGによるサルディニアへの最初のミッションは、5月13日であった。34機のウォーホークは、チュニジアの海岸線から北方へ100マイルの海を越え、カリャーリ(Cagliari:サルディニアの州都)まで爆撃機を援護し、敵の妨害なく帰還した。この平穏無事なスタートから6日後、作戦は急に激しくなった。補給デポを攻撃するB−26爆撃隊を援護した32機のウォーホークは、11機のBf109に上空から急襲され、すぐに大規模なドッグファイトが始まった。

 このとき、317FSのハーシェル・グリーン中尉(1Lt Hershel H 'Herky' Green)は、P−40がBf109より高く上がれないこと、水平飛行では逃げられないことを知っていた。唯一の選択は攻撃に向かうことだった。彼は、数機のBf109に長い連射を浴びせた。

 間もなく、Bf109は、彼が一方に向かうともう一方が彼の後ろにつく連携攻撃を始めた。P−40は多数の被弾を受け、無線機を撃ち抜いてシート背部の防弾板に当たった20mm弾もあった。パニックになった彼は、ウォーホークを派手なスナップロールに入れた。機は失速し、パワーオンスピンとなったが、なんとか回復した。彼はウォーホークをいたわりながら、海を越えてチュニジアの基地に戻った。着陸の後、グリーンの飛行機はジャンクヤード行きとなった。

 しかし、彼の飛行隊長ビル・リード大尉がグリーンが銃撃した後に1機のBf109が落ちていくのを見ていた。これが、グリーンが325FGでP−40、P−47、P−51で挙げた18のスコアの最初となった。彼はMTOのUSAAFで2番目のエースとなって大戦を終えた。






 6月の終わりまでの6回以上のサルディニアへのミッションで、325FGは23機のスコアを挙げた。7月の最初の3週間はシシリー侵攻の支援に集中したが、7月20日「チェッカーテイルズ」はサルディニアに戻った。317FSのジョージ・ノヴォトニー少尉(2Lt George P Novotny)は、57年後にそのミッションを回想した。

 「確か、その日2回目のミッションに、我々の飛行隊から12か16機のP−40が出撃した。我々はカリャーリの飛行場を爆撃し銃撃する予定だった。我々は海面上50から100フィートで地中海を越え、カリャーリの港と街を越え、飛行場に向かった。我々が接近すると多数の敵戦闘機が離陸し、いくつかは旋回していた。ざっと見積もって8から10機だった。」

 「我々は大きな輪を描くように旋回した。数機のマッキC.202が正面から向かってきた。その中の1機に衝突しそうになり、その機銃の閃光が見えた。そいつが通り過ぎるとき、私も撃った。煙が尾を引き、エンジンから火が出た。202は道路脇に胴体着陸しようとした。煙と炎が多量に出てきたが、パイロットが脱出したかどうかは見えなかった。機体は地面を滑り、破壊された。」

◆  ◆  ◆

 7月30日のミッションは、32機のP−40による、サルディニア南部への通常の戦闘掃討であった。最初、25から30機のBf109に急襲され、さらにメッサーシュミットとC.202の一群が加わった。ドッグファイトの間、米軍はただ1機のP−40の損失で21機の撃墜を記録した。戦闘後の報告では、敵戦闘機が通常のダイブ&ズーム戦術ではなく旋回戦を挑み、それが通常より撃墜数が多い理由であるとされた。

 ドイツの研究者が調査し、敵戦闘機はIII./JG77.とされたが、この隊の記録では、この日はわずか5機の損失である。しかし一方、同隊は1機のP−40の撃墜に対して5機を記録している。多数機による広範囲な格闘戦のため、戦果が過大になったと考えられる。

 このミッションで、317FSのウォルター・ウォーカー中尉(1Lt Walter B 'Bud' Walker)は、単機で3機のBF109を相手にした。彼は2機を撃墜したが、旋回するうち高度がどんどん下がっていった。3機目のBF109が、彼の後方についてP−40を撃ち始めた。樹上すれすれで、彼は急旋回した。BF109は追従しようとしたが、その劣る運動性のためスナップロールに陥り、地面に激突した。






 サルディニアでの最後の、そしてP−40での最後の撃墜が記録されたのは、8月28日の工場への急降下爆撃ミッションであった。いつものように、上空と背後から急襲されたが、トップカバーのP−40が爆弾を放棄し攻撃に向かい、2機の損失と引き換えに7機を撃墜した。

 325FGは、さらに6回のミッションをサルディニアで行い、9月14日の平穏無事な戦闘掃討でキャンペーンを締めくくった。1週間後に島は降伏し、2日後に325FGは新しい戦闘機、マッシブなリパブリックP−47サンダーボルトに転換した。P−40はMTOに残る4つの戦闘飛行群にばら撒かれ、そのカラフルなチェッカーテイルはドラブで塗り潰された。




 参考資料


■ 参考文献

 手持ちの資料が少なく(モノグラフでは文献−1〜4まで)、またまた応援依頼したところ、多数の資料を貸していただいた。感謝感激。
 文献−2のEthell著「P-40 Warhawk In Color Photos from World War II」はオールカラーの写真集で、F/Lも多い。砂漠迷彩のカラー写真は、塗装の考証に強い味方。最近、P−38、P−51と合本で再販された。文献−4、スコドロの「Checkertails」は、マーリンホーク、サンダーボルト、マスタングと乗り継いだ325FGの写真集。

 以下、お借りした資料。文献−5、6のD&S、ウォークアラウンドは、F/L関連が少ないが、首から後ろはアリソンホークと変わりないから、ディティールアップ資料として十分使える。文献−7はF/Lに特化した、非常にマニアックな本。Fのコクピットの写真もある。文献−9オスプレイのMTOのエースは、まだ日本語訳が刊行されていないが、これまたマーリンホークてんこ盛り。訳本の発売を期待したい。文献−11は、製作記事がメインだが、ディティール写真も充実している。


1 旧・新版世界の傑作機 文林堂
2 P-40 Warhawk In Color Photos from World War II Motorbooks International
3 Curtiss P-40 in action Aircraft Number 26 Squadron/Signal Publications
4 Checkertails The 325th Fighter Group in the Second World War Squadron/Signal Publications
5 D&S Vol.62 P-40 WARHAWK PART 2 P-40D through XP-40Q Squadron/Signal Publications
6 Walk Around P-40 Warhawk Walk Around Number 8 Squadron/Signal Publications
7 AVIATIK WWII AIRCRAFT No.1 Curtiss P-40F Warhawk AVIATIK
8 MONOGRAFIE LOTNICZE 65 CURTISS P-40 XP-46, XP-60 cz.2 AJ-PRESS
9 Aircraft of the Aces 43 P-40 Warhawk Aces of the MTO OSPREY
10 COMBAT COLOURS Number 3
The Curtiss P-36 and P-40 in USAAC/USAAF service 1939 to 1945
Guideline Publications
11 BUILDING THE P-40 WARHAWK KALMBACH BOOKS
12 The Spitfire,Mustang and Kittyhawk In Australian Service Aerospace Publications


追記。文献-12のp.151〜153にはMTOで使用されたRAFラウンデルF型(RAAF 3Sqn)の写真あり。


■ 参考サイト

  1. NACA翼型について
  2. Airliners NetのP-40
  3. ウルトラキャスト(Ultracast)HP 
  4. web-birds 57FG
  5. web-birds 324FG
  6. 計器板
  7. コクピット
  8. Eのクローズアップ写真
  9. 細部写真
  10. 112sqnのカラー写真
  11. オースティン中佐の経歴11/14追加
 





前ページへ

HOME