カーチス P−40L ウォーホーク
Curtiss P-40L-5-CU Warhawk




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P-40L-5-CU WARHAWK s/n42-10664 "Lighthouse Louie" of Lt Col Gordon H Austin, CO of the 325th FG, Tunisia, June 1943.



















『・・・1942年から43年の間、P−40航空隊は北アフリカ、シシリー、イタリアの航空戦で鍵となる役割を果たした。ある日の彼らの任務は爆撃と機銃掃射であり、別の日は中爆の戦闘護衛であった。
その欠点にもかかわらず、この種の航空戦においてカーチスP−40は優れた兵器であった。それは決して高速で高高度を飛行できる機体ではなかったが、タフで、信頼でき、重武装で、相当量の爆弾を携行でき、そして中国や太平洋と異なり、交戦した敵機よりもマニューバブルであった。
P−40パイロット達は、より最新のライトニングやサンダーボルトやマスタングで飛びたいと願っただろうが、ウォーホークはその時点での唯一の米国戦闘機であり、彼らはそれでベストを尽くしたのだった。・・・』
(カール・モールスワース、MTOのP−40ウォーホークエース(オスプレイ社刊)より引用)



モデルは1943年6月チュニジアにおける325FG(戦闘飛行群)司令官ゴードン・オースティン中佐乗機P-40L-5-CU s/n 42-10664 "Lighthouse Louie"である。

325FGは、北アフリカにおける5番目のP−40戦闘飛行群として、1943年1月、空母レンジャーを飛び立ち、カサブランカ近郊に進出、戦闘を開始した。同年5月、北アフリカの枢軸軍が降伏すると、尾翼に黒黄のチェッカーを飾り、チュニジアの基地から地中海を越え、サルディニア(イタリア西方の島)を攻撃した。同年9月、同島が降伏するとP−47に改変、その後さらにP−51に改変し、終戦までイタリア地域で戦い続けた。

オースティン中佐は、真珠湾の生き残りで、1942年12月に325FGの指揮官となり、北アフリカ戦からサルディニア戦の半ばまで部隊を指揮し、P−40で3機の撃墜を記録した。325FGには約7ヶ月間在任し、同年7月、B−26マローダーを装備する319BG(爆撃飛行群)の指揮官に転任した。その後も米空軍の要職を歴任し、1966年少将で退官した。



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