P-51A マスタング 製作記 その2
2016.7.4初出
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まず、小手調べの水平尾翼から。 |
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ロボでテンプレート切って、0.4mmダブル針でスジボリ。直線部はエッチングソー。ブレ防止にプラバンを接着。これは有効。←早く気づけよ。 |
コンパウンドで磨く。グレアシールドについてはバリエーションがある。A-36A図面解説で詳述。 |
アイリスレジンの計器盤を接着。チョイ奥過ぎたな。床パーツは余分なディテールを削り、後方に延長。 |
アイリスのシート&防弾板も仮組み。防弾板後方のA型フレームなど、細かいことを言うと少々違っているが、気にしないことにしよう。 |
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ゴミ防止に前後隔壁を接着し、さらにテープで隙間を塞いでおく。塗装中に中央部キャノピは接着しない予定なので、あまり意味ないと思うけど。 |
で、士の字となる。キャノピとスピナもつけて気分を盛り上げる。 |
主翼下面から機首への直線がキモ。 |
ラジエータダクトも接着して整形。ところがパーツが薄くてリベット打ったら大穴があき、その補修でいらぬ手間。 |
ラジエータダクトは、仕方なく薄い部分を切り取って1mmプラバンに置き換え。合わせをミスって瞬間+プラ粉を盛る羽目に。
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デリケートな箇所だけに、微小な隙間等はタミヤパテで処理する。 |
中央部キャノピを外した状態。この2枚の画像ではクラックは分からないのだが。 |
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着陸灯はプラバンヒートプレスとアルミ板。内壁はジンクロイエローが正解と思うが、模型的フィクションで暗灰とする。 |
接着、整形、スジボリ終了。画像は下面。ライトは機体中心寄りにあり、透明カバーも外を向く(でも寄り過ぎか?)。 |
さらにカウルにファスナを打ち、スジボリ、リベットを追加、修正してサフ吹き直前まで。アルミ部はセロテープでマスク。 |
キャノピもセロテープでマスク。透明過ぎて見えないけど。キャノピ中央は仮止め。テープとスポンジで隙間をガード。 |
リベットが埋まらぬよう、極薄のサフを吹く。クリアパーツには内部色を先に吹いておく。 |
特徴的な結合リベットは#3と#1のたまぐり。完全再現できず一部フィクション入る。機銃口も開ける。 |
リブテープにインレタ。疾風と一緒に作ってある。 |
サフを吹いて定着。タブとリブが微妙にズレているのは、見なかったことにしよう。 |
補足。カウルのファスナは#6たまぐり。フィレットは#4。主翼下面の燃料タンク部外板周囲、凸ボルトの再現はパスして#4たまぐり。主翼の結合リベットは、実際にはパテ埋め塗装して見えないと思うが、P-51模型のお約束みたいなもんなので。アルミ板との境は塗装の縁を切るためスジボリしておく。最終的にはアルミ部にもフラットクリアか何かを吹くつもり。それまではマスクしておくのだ。
インクスケープ小ネタはカメラの描き方。プレキシガラス越しに見える部分の表現として、カメラの描画を透過率80%に落としてキャノピ内部の描画と同じレイヤに置き、ガラスのハイライトを乗せる。穴から見える部分は、描画のコピーを穴の形のオブジェクトを使ってマスクし(カメラが穴の形に切りとられる)、ハイライトより上のレイヤに置く。 |
続いてはP-51(偵察型)で、正式な型式名はF-6Aとなる。第154偵察隊(Observation Squadron)所属、1943年4月北アフリカ。シリアルは41-37328(歩回本の-27328は間違い)。左舷の写真は手元になく、シリアルの記入位置など推測。右舷の裏返しで描く。カメラ窓の形、カメラ搭載角度はバリエーションがあり、これも推測。USAFで見られるカメラ窓は、バブル状に膨らんでいる。絵が下手でそう見えないけど(泣)。カメラ搭載方法はRAFとは異なるだろうが、そもそも正確なところが解ってないから描き分けようがないのじゃ(穴に合うよう角度は変えてある)。 胴体インシグニアは写真をトレースすると約38インチサイズと半端、シリアルは10インチ。当時の星条旗の星は48個。この方面の機体は主翼に黄色帯を巻いているものが多く、インアクションの写真ではうっすらと主翼黄帯があるように見える。帯の幅はおそらく12インチ。左舷主翼下面インシグニアは推測。この方面のA-36Aで左右両舷に記入した例が見られ、それに倣う。 |
その次に登場はA-36Aアパッチ。1943年北アフリカの第524FBS(戦闘爆撃隊) John Crowder少佐搭乗機。インシグニアの赤縁は1943年夏頃に短期間使用された。胴体の赤帯はかなり太い。主翼は上下とも左右両舷にインシグニアがある模様。少なくとも左舷下面は確認できる。味方の誤射には悩まされたのだろう。"Dorothy Helen"のパーソナルマーキングは不鮮明で、イラストは歩回本のイラストを「参考」にする。おそらく整備員名を記した黄文字は写真で判読不能。他で使ったものを字面だけ合わせて貼り付け。 |
最後はP-51A。1943年後半、桂林における第76FS、23FG所属 John Stewart大尉乗機s/n 43-6303。1ACGのコクラン機と比べると、胴体ループアンテナ位置が異なる。現地改造ゆえか。基部は無塗装だし(グレイ塗装にしか見えないって?)。同隊には15機のP-51Aが供給されたとかで、他に#114s/n43-6298、#101s/n43-6287(下2ケタのみ判明、他は推測)がある。122号機は、後に機首にLYNNの文字(妻の名)と9個のスコアマークが記入された。オスプレ23FG部隊本に写真イラストあり。鮫口のアリソン馬もエエなあ。←よほど鮫口好きのようだ |
折角なので、コクラン機も並べてみよう。インシグニアの赤縁は時期違いで青もあると思われる。同隊別機のカラー写真で、塗り直した青縁の下に赤が一部見えているものがある。作品は赤にする予定。 |
ところで、アリソン型のプロペラブレードは、写真で2種類が確認できる。初期はカーチス電動 No.89301-6で、後期のP-51AとA-36は同じくカーチス電動 No.89303-27Wとのこと。情報感謝。初期のブレードはP-40と同様に先が尖っている。後期のブレードは先が丸く、ハミルトンに形がよく似ている。 |
ルータでプロペラ穴を開ける。軸をバイスに固定し、しっかり保持する。中心には取付用に細穴を深く掘る。 |
ハセコルセア-5の不要パーツをベースに、先端を5mmほどカットして外形を整える。ちなみに当機は幅広のハミルトン似。 |
タブ操作ロッド、尾灯を取り付ける。後で実機写真を見たら尾灯は細部が異なるな。エレベータタブのロッドはまだだし。 |
ループアンテナ基部は適当なプラ材を削る。さらにリベット忘れや表面の不具合を修正し、ようやく塗装準備完了。 |
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まず下面を塗装し、水平尾翼をマスクして上面。境界はフリーハンド。塗装後にラプロス#6000で磨く。 |
スピナとカウルの段差に気づいて修正。←塗る前に気づけよ。ちょうど削ったところにあるパネルラインはSカーブとなる。 |
タッチアップ。グラデーションもつける。パネルライン、カウル周辺に暗色、上側と羽布部には極薄セールカラーで退色表現。 |
下面にもグラデーション。塗ってみると#13ビン生は、やや暗いかな。画像は見た目より明るく写っている。 |
調色メモ。白はGX1クールホワイト、退色したインシグニアブルーは、ヘルダイヴァで作ったノンスペキュラ・シーブルー。レシピは#365グロスシーブルー、黒、白が2:2:3に微量の赤。#365の緑味を補正するのだ。退色したインシグニアレッドは、当初#114RLMレッドのビン生としたところ、塗り上がりが暗く、白を少量加えて塗り直す。ラダーとエレベータ端部は白の可能性もあるが、銀ラッカー塗装と想像し、JASDF機セットの#377アルミナイズドシルバー。 |
オラマスク810。セロテープを転写シートかわりに使って、モデル面に一体で貼り付け、不要部を剥がし取る。 |
まず、白塗装のためのマスキング。帯には伸縮性のあるカッティングシートを使う。 |
白を吹いて、青塗装のためのマスク。オラマスクは半透明のグレイなので、画像だとよく分からないね。 |
青を吹いて赤のマスク。 |
マスクをはがす。画像では赤が明るいが、実際にはもっと暗く、このあと再度マスクして赤を重ねる。 |
マスキングテープをはがしたら、一部のインレタが持っていかれる。仕方なくサフで補修。 |
機番1はインレタ。このように台紙ごとテープで止め、台紙を抜いて転写する。背後に将来の予定?が・・ |
シリアルは帯にテープを貼った上から転写する。下側のテープは仮止めの際の位置決め用。 |
翼付け根に銀はがし。ODの下に#8銀を塗っておいたのじゃ。テープが貼れなくなるからシリコンバリアはなし。 |
マーキング塗装終了。赤と青の色味はまずまず満足。このあと盛大に排気汚れのウェザリング。 |
補足。インレタの前に、マーキングを中心にフラットクリアを吹いて段差を落とす。インレタ後に再度フラットクリア。銀はがしは先の鈍った切り出し刀で、リベットラインを意識してカリカリ。パイロットと整備兵になったつもりで、翼の上を「歩く」。どんな粗忽者でもフラップの上は踏まないだろうとの想定。銀とODの境界に面相筆でジンクロイエローをチッピング、さらにミディアムシーグレイで「はがれ未満」のチッピングを加える。こういう中間の階層を設けると、強いトーンのウェザリング(この場合はエイジングか?)も浮かずに馴染む。 イラストは、これまで手抜きで白帯が直線。実物どおり上下を湾曲させる。横から見て直線なら、実物を上から見ると先端は楕円になるからねえ。で、改めて写真を見ると、帯とインシグニアはあと1mm前が正解だな。自分のイラスト見て塗ったんだけど、それが違ってたんだよね。自分に騙されたので、文句も言えない。
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バイスで溝を掘る。車軸部分は下まで貫通している。フォーク部は縦穴を開けてから薄皮を取る感じ。 |
0.7mm真鍮線を通して、瞬間でがっちり接着。オレオは1.8mm真鍮パイプをはんだメッキ。トルクリンクにも彫刻、穴あけ。 |
使えないホイル。エデュアルド何を考えてるんだか。 |
爪楊枝が2.35mmのルータにジャストフィットなのだ。たとえ少々芯が狂っていてもこの程度の工作には支障ない。ホイルはタミヤ。 |
穴を開けたら向こうが見えるぞ。 |
脚と車輪を組み合わせてみる。なかなかイイ感じ。ホイルハブなど、もう少し細部を追加する予定。 |
頭の中では自分のイラストを完璧再現するイメージが出来てるのだけど、筆での落とし具合が上手くコントロールできず、イメージの半分の再現度で残念。最初の一撫ぜで落ちず、何回か目でいきなりどばっと落ちる感じ。以前から使ってる技法(スカイレイダーとか)なんだけど、今回は黒+バフの汚れの層が厚いのが敗因か。薄く何回も繰り返すといいのかも。エナメルシンナーで全部拭き取ってやり直すという手もあるけど、プラの劣化も怖いし、まあセンスの限界ということで妥協しよう。 |
まず、エナメルの黒+茶をエアブラシ、その上にバフを重ねたところ。胴体だけでなく、主翼も汚すのがミソ。 |
写真を見ながら、駐機状態での鉛直方向を意識してエナメル塗料を落とす。なんか出来上がりがいまいち。 |
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脚の牽引リングは0.2mm真鍮線を焼き鈍して?形に曲げる。 |
脚まわりを塗装。脚柱、ホイルはリニューアル前の#8銀にフラットベース少量。水溶きウェザマスでウォッシング。 |
脚カバー、尾脚はタミヤ。尾脚柱は0.7mm真鍮角棒。曲げてはんだ付けして断面を削る。 |
脚庫はジンクロイエローのリブ、桁に銀の天井とする。根拠は後述。マスクしてジンクロをエアブラシ、#8銀は筆塗り。 |
ブレーキラインは延ばしランナーと0.4mm(たぶん)鉛線。接続部はマスキングテープで手抜き。アップだとツライな。 |
脚柱に取り付け。脚カバーが邪魔で一旦はがす(正確には「取れた」だけど)。 |
キットの排気管は、横から見ると悪くないが、上からだと付け根が細すぎてペケ。 |
ハセガワP-40の排気管に置き換える。形状を微修正。ピッチは同じはずだけど何故か合わず、1本ずつバラして再接着。 |
プロペラを塗装して、エアロマスターのP-51B/D型用コーションデカールを貼る。よく見ると位置がバラバラ・・・ヘタレや。 |
ブレードにフラットクリアを厚吹きして研ぎ出し、スピナに接着。スピナの後側に小穴をあけて瞬間を流す。 |
ボムラックの振れ止めは、虫ピンを先般購入の精密チャックに咥えて削る。右:加工前、左:切削後。 |
ボムラックはタミヤのパーツに1mmプラバンを削った足を接着。8本も削ると疲れる。この形、なんか両生類か虫ちっく。 |
P-51AはB/Cと同じ金属製シート。これはアイリスのB型用レジン。ベルトは鉛板にレジン同梱のエッチングの金具を貼りつける。 |
塗装。ベルトはかなりオーバースケールだな。ベルトの取り回しも雰囲気優先で実際とは異なる。 |
N-3ガンサイトも同様アイリスのレジン。5回りほどオーバースケール。プラ用接着材が使えるようにプラバンのベロをつける。 |
ループアンテナは0.5mm真鍮線と0.7mm真鍮パイプをはんだ付け。上は愛用のポケトーチ。 |
補足。アリソン馬の機体内部はよく分からない部分が多い。以前調べたところでは、脚庫は当初は銀塗装、後期ではB型と同じだとか(1/32製作記その1参照)。手持ちのアリソン馬の脚庫の色が分かる唯一のオリジナルカラー写真では、ジンクロイエローの桁が見える。天井は不明。最初のマスタングはRAF規格に合わせた内部塗装とのことで、RAF発注機は銀の脚庫なのかも。その場合、コクピットもRAFインテリア・グレイグリーン(の米製近似色)なのかな。 シートも、初期は木製で後に金属製。両者は形状も若干異なる。詳しくは歩回本あたりを参照されたし。でも、いつから変わる?とか、色は?とか、細部を気にすると不明点だらけ。RAFのシートベルトはやっぱサットンなのかな? クイックブーストのアリソン馬用排気管は、アキュのパーツがベースで細い基部のまま。使えない。P-40は同じアリソンエンジンだけど、排気管の形は微妙に異なりP-40の方が曲線的。ハセ鷹のパーツを削って形を整える。ピッチは同じはずだが、なぜかハセのは過大。ということは・・・(いやな悪寒)。バラバラついでに等間隔でないピッチをちょっと誇張気味に再現する。溶剤系接着剤で1つずつカウルに接着して向きを揃えるのだが、これがまた難しい。よく見りゃガタガタだけど、技術の限界。忘れよう。 ボムラックは製造図面があり、それによれば左右共通部品で翼下面に垂直に取り付けられる。キットはアキュもタミも地面垂直だが修正せず。製造図には、取り付けstaはあるもののラック本体寸法が未記載。ただし後足付け根のボルトで主桁に止められる構造が分かり、それと実機写真を合わせれば、寸法もまずまずの精度で判明する。以前のイラストは写真を横目にテキトーに「絵」として描いたので、そのあたり不正確。今回図面に起こして下面図に記載、イラストも描き直して差し替える。 ガンサイトのスクリーンは0.2mmプラバン。メタルプライマーで仮止めして微量の瞬間で固定。接着部を隠すように基部を黒く塗る。コクピットへの取り付けは、ボトルシップ状態になるので、瞬間は使いたくない。そこで接着部にプラバンを瞬間で付けておき、白フタで調整しながら接着する算段。ベロが長いのは、工作、塗装の持ち手にするため。プロペラのデカールは、実機写真とは字面が違う。あくまでイメージということで(汗)。
左舷側はPET板。自分で絞ると凸凹だらけになるから、曲面に加工済みのものを買ってくる。といっても東急ハンズでは売ってない。購入店は緑と橙の看板に7の文字・・ってセブンイレブンじゃい。窓枠はカッティングシートをロボで切る。窓のマスキングもできて一石二鳥。折角なのでスライド式の前窓を開閉可にする。シートはマスキングに使うには粘着力が強くて閉口するが、この場合は粘着力不足ではがれてくる。そこは端部から瞬間をちょん付け。ディテールパーツも瞬間で接着するしかないので厄介だ。でも、窓枠のスッキリ感はこの方式がベストだろう。 |
500cc炭酸水のボトルがちょい厚めで、これを使用。シートは断面が目立たぬようグレイを選択。 |
PETにはシートを貼り、タミヤのパーツは薄く削ってスジボリして磨く。 |
細かいディテールはプラ細工。ノブの球は、プラ板の先に瞬間を点付けしてプラ粉に突っ込む。 |
胴体への接着は木工ボンドで。ま、一応閉状態キャノピも使えるように、ってことで。 |
タブ操作ロッドを付け忘れ。延ばしランナーと0.14mmプラバンで。塗装後なので接着には気を使う。 |
筆で塗装、ウォッシングで周囲と馴染ませる。ラダーのはオーバースケールだな。 |
その他、真鍮棒削り出しのピトー管、0.9mmと0.7mm真鍮パイプの機銃、タミヤの尾脚扉は前回までに工作済み。真鍮棒削り出しのアンテナ柱、テグスのアンテナ線を取り付け。風防のクラックには、フューチャーを内側から塗ってみる。従前の半分くらいには目立たなくなる。アルミの表面処理をどうしようか、策は練ってたんだけど、結局無塗装。プライマーやクリアは吹かない。スピナのみ若干光りすぎで、排気汚しのついでにバフを極々薄に上掛け(プライマーなし)、ウェザマスのウォッシングでトーンを落とす。 以上で目出度く完成。いざ静岡へ。写真は後で。
さて、写真にして眺めると、アルミ削り出しのスピナがいい感じに光ってくれて、苦労の甲斐あり。久しぶりのドロデロ汚しは、もうちょい精進が必要だな。反省点はあるものの、出来上がればこっちのもの。粗削りで無骨だけど、サラブレッドの片鱗が見えるその姿は、申し分なく魅力的だ。 |
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1ACGは1943年8月のプロジェクト9を起源とする。当時ビルマの日本軍背後で長距離侵攻を行っていた「チンディッツ」(chindits:ウィンゲート准将の英陸軍第77インド旅団、後に第3インド師団に改名)を航空支援するためのものであった 。 その後、プロジェクトCA281、第5318暫定部隊、第1エアコマンドフォースと名前を変え、1944年3月に第1エアコマンドグループとなった。指揮官は、北アフリカの58FS/33FG(P-40F装備)司令であったフィリップ・コクラン(Lt.Col. Philip G.Cochran)中佐、および、AVGフライングタイガースを経て75FS/23FG(P-40E)の司令であった、ジョン・アリソン(John R.Alison)中佐が共同で務めた(後、アリソン中佐は副官になる)。 1ACGは、航空機によるチンディッツ支援として、物資補給、爆撃・砲撃、空挺隊輸送、負傷者避難、制空を実施する、独立して活動・生存できる部隊であり、約500名の兵員で編成された。使用機材はC-47ダコタ(13機)、B-25H(12機:75mm砲装備、AVGで活躍したR.T.スミス大佐がB-25隊の指揮官)、CG-4ハドリアングライダー(150機)、L-1/L-5連絡機(100機)、P-51A(30機)、およびUC-64軽輸送機、TG-5訓練グライダー、YR-4ヘリコプター各若干数であった。 1943年秋にインドで編成に着手し、同年末、インパール西方約100kmにあるハイラカンディ(Hailakandi)、ララガット(Lalaghat)の両飛行場に移動し、訓練を開始した。翌1944年2月3日には、コクラン中佐が5機のP-51Aで最初の作戦飛行を開始し、12日はB-25も加わった。3月4日までに5318隊は54回の戦闘・爆撃作戦を行った。 1ACGの活動のハイライトは1944年3月5日夕刻から始まった木曜日作戦(Operation Thursday)であった。この作戦は前線後方の日本軍補給路を妨害するのが目的である。英米軍6つの輸送飛行隊のC-47も加わり、2機ずつ曳航された63機のハドリアングライダー(その1機はアリソン中佐が操縦)がハイラカンディを離陸し、ブロードウェイ(ビルマ北部バモー (Bhamo)近傍の地点コード名)に着陸した。539名の空挺隊員が運ばれ、直ちに飛行場が整備され、翌日夕方から物資、人員を乗せたC-47が続々と着陸した。この作戦で、連合軍として初めて前線から200マイル以上奥への航空機による地上軍展開を行った。 3月8日にはB-25Hと爆装したP-51Aの攻撃隊がシュエボ(Shwebo)の日本軍基地を攻撃し、48機の戦闘機、爆撃機を破壊した。1機のP-51Aが隼を撃墜後に衝突、墜落した。作戦終了の3月11日までに、英米軍合わせて9052人の人員と20万トンの物資を輸送した。作戦後しばらくの間、1ACGはチンディッツを支援し、砲兵を持たないチンディッツの要請で空からの砲撃・爆撃による航空支援を実施した。また、L-1/L-5連絡機により1000名以上の負傷者の救出を行い、史上初のヘリコプターによる救助作戦を行った。その後、雨季により活動が困難となり、5月23日に一旦撤退した。 1944年9月、新司令Clinton B.Gaty大佐の下で新たに再編され、戦闘機をP-47Dに機種転換(他機種は継続)して活動を再開した。1945年4月にはP-51Dを受領。終戦まで、ビルマにおいて物資輸送、負傷者救出、近接火力支援、対地攻撃を行った。この頃にはRAFサンダーボルト部隊も共にビルマで活動したが、そのあたりはサンダーボルトII製作記にて。
プロジェクト9が始動すると、アーノルド大将(米陸軍航空軍司令官)により、その司令に抜擢された。戦後は空軍を退官し実業家となる。1979年没。彼は天性のリーダーシップを備え、積極的だが野心的ではなく、戦術は大胆で柔軟であったという。1ACGという全く新しい組織を立ち上げ、訓練し、実戦で成果を残すという仕事には最適であろう。その人となりはポートレイトからも感じられる。
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